きょうのにっきはながいぞう

きょうはお休みで江戸東京博物館円山応挙みにいったよ。江戸東京博物館に行くのは初めてだったんだけど、菊竹清訓の作品だということは知ってたのでルンルンでいった。さすがでした。気がふれてる、この人おかしい。ぶっとんでる。でかすぎ。どう形容すればいいのかわからなくなるけど動転するというか、混乱するというか。景観を崩すパチンコ屋みたいな巨大さ。悪夢的。悪夢といえば今朝悪夢を見ました。混乱してて自殺しようと思って「自殺します。みんなどうもありがとね」って言ったらみんなが悲しむんだけど、「わたしが自殺したら塾のせんせいは悲しむかな?」と思って「せんせいが悲しんでるのを見たい!!」と思うんだけど死んだらわたしはそれまででそんなもの見ることができないのね(この着眼点が凄くリアルでやりきれない)。そんでお母さんに自殺と見せかけておいてせんせいが悲しんでるのをこっそりみてから死にたいといったらおかーさんたら「嘘は駄目」と・・。そんで泣く泣く「死んだらクリアーになると思ったんだけどまだ心残りが・・」とか長々と遺書を綴る夢。この夢のおかげで自殺にたいする見方ががらりと変わりました。説得力あったわー。そんな悪夢的な菊竹清訓のソフィテル東京にも一ヵ月後さる理由で泊まります。たのしみ。さて・・円山応挙にもどります。
・からくりのある絵−視覚トリック
・実の写生−現実のものの姿を写す
・虚の写生−架空の存在ながら心にあるイメージを写す
・気の写生−生命感や風情・品格を写す
・虚実一体空間−絵の中の空間と現実空間の融合
大きくこの5つに展示スペースが分けられており特に興味しんしんになったものは「気の写生」のスペースでした。
氷の絵。間の取り方が巧いし、(描くという行為の痕跡として)遊び心もあるし、要素を極力削いでできた、究極の、シンプルな構成。そこから受け取った情報で鑑賞者側の体験/経験/歴史から自らのリアリティを換気する絵というか・・(むずかしいこと言ってるなあ)そんな絵が描きたいんです(言葉にするとむずかしくなってしまう)。
こういう視点で絵を楽しんで見ることができる人はこの業界には居ても世間にはそういるもんじゃないのかな。そういう視点を育むゆとりがないというか・・絵を鑑賞すること=視覚的な情報を享受することでしかない というような。
音楽鑑賞=聴覚的な情報を享受することでしかない って人はあまりいないと思うんだけど・・日常に充分浸透しているものだから。円山応挙は日常に浸透していないからなあ。
人の日常において音楽の存在は「におい・温度レベル」まで到達したけれど、美術はそうはいってないと思う






「実の写生」の髪を結った女性の後姿のフォルムがモダンで可愛くって、ずーと見ていたんだけど、これってマンガっぽいなあ、それも林静一の・・と思ってたらあがた森魚の「赤色エレジー」が頭の中をぐるぐるしていてもたってもいられなくなり帰宅。ママチャリでタコシェに行く。トレヴァー・ブラウンのフェアやってて・・シール買っても良かったなあ(100円だったし)・・わたしにとってトレヴァー・ブラウン≒児島サコ、けっきょくああいうのが好きなんだけど、それはイメージとして情報としてで、丹精こめて物質化/視覚化しても、物質/視覚に限定してしまうことでわざわざ見るのがめんどくさくなってしまうことも確かかもしれない。そういえば音楽って聴覚で認識できても物質じゃあないんだね。ブロードウェイにはフィギュアの着せ替えのワンピースを選んでる男性などがたくさんいてよどんでいました。
ミロードでMAYAMAXXのボロスエット買って帰宅