短い言葉で的確に伝える考え方によりすぎたんかもしれん。もちろんそれはすごくすごく重要なことなんだけど、抽象的なことを考える時間が少なくなると息切れしがちなんだと思う。つねに自分ひとりだけで考えて、時々他人に話せるくらいでいい。「つねにどこかの誰かはどこかの誰かに似ている」とか、時間の捉え方とか、白色についてとかの、大雑把な、大まかな想像。平常心で足の裏と3時間くらいお話しできる状態。

他人とコミュニケーションをはかれる精神状態でそれを保つのは今の私の人との接し方では難しい。ここ数年、がんばるって点では他の要素を削ってでもがんばるみたいな気概のようなものは持ってきたけど、悲しいことにほとんど自分の頭を使ってこなかった。というのを、認める必要があるのか。



ポートフォリオつくってて、写真の中に人間が入ってると、何だろう!?って惹かれるものはある。コミュニカティブ である「だけ」の人やものは私は大嫌いなんだけど、コミュニカティブ というのは自分にとって影や重力等と同じくらい、また人によってはそれ以上に重要なものなんだなあと確認。この学校に入って初めて知ったことです。グルワが基本だしね。もっと人間の写真入れて様子みてみたいわーって思ったり、じゃあ犬猫動物だったらどうなんだろうって思ったり。マタタビ入りの何かつくってねこちゃんたちとコラボしたい。電子工作ワークショップでねこちゃんとのコラボに失敗したけどあれもしかしてマタタビを中に入れておけば大成功だったんじゃ。とか考えて単位と作品制作のためにこういうwebをうろついてみたりhttp://nekomata.sytes.net/とか、今まで考えたりしなかった扉が開きそうな感じがあっておもしろい。



性格の判断材料に、とろいことって、何か相関性はあるんですかね・・

はやくTHIS IS ITみたい