整理しときたいことはたくさんある。

〜ニャ!

個人的な記憶の引き出しさえあれば、追憶の日々の、再体験はできる。と思う。

高校時代のこととかね。どもり・たじろぎ・ごまかして、目をそらしてアホみたいに空ばっかり見てた気がするから、バカみたいに屋上のフェンスにつかまってた気がするから(夏休み中に、屋上の鍵がかかってたからちーちゃんと手すりにつかまって窓から出入りしてて、校長に見つかって、あなた達はサルですか!と怒られて掃除したこともある。)ちょっとはっきりさせたい気分。
あの頃は、夢の実現とかいうことは、今と違ってどちらかというとどうでもよく(リアリティが薄かったからね)、ほんとうのおしゃれだとか何かのために傷つくよりも、着実に、ときに機嫌悪めに、だらっと日々を消費し、その結果に応え、アイデンティティづくりにいそしもうと思ってわかりやすい能書きたれたり悪いことをしたり、仲間同士で独自に作った言葉や凝った言葉、態度のぶつけ合いを楽しみたがったり、嘘みたいな夢を見ることが最重要だったとおもう。そんで、そうしてたと思う。

そういうときに見る空は、色が鮮やかだった気もするし、わざわざ見る価値があるものでしたよ。今は、別に、時々見るけど、見てても退屈というか、どんなもんかだいたいわかってるからね。
当時のだらっと具合を如実に表してるのは、高3というキーワードで思い出すことで、教室のある階の渡り廊下の前にある控え室的な場所をアジト的な場所にしていて、御学友がそこで登校途中に買うジャンプを読み、読み終わったら枕にしており、わたしは本を読んだりエスキースをしたりおかしを食べたりしていたことがあるけど、時々入ってくる子が、なんか臭いよ!つったりしてて、まあよどんだ空気があったんでしょうけど、悲しいこと悔しいことがあっても、強く憎んだりするのとは違って、個人的な筋書きからしたら底の浅い陳腐でやっすいショボダサな演技をしたり、人をなめたり、ぬる〜い空気でしたけど、あの時期って。でも当時はそれだけの貧しい要素で満足していた。というか、何か人との出会いでK点を越すのが怖かった。宙を舞う感じは、けっこう快感で、いろいろがちぐはぐのままでも、自分だけがわくわくするための自分だけの思考回路を研ぎ澄ますだけで充分なところがあった。雨がふってるのを教室からながめ、木々がざーざー言うのを感じ、とってもジェントルなちょっとの偶然の賞味だけでわくわくできたさ。今でもまあできるけど、今は、自分自身に筋が通ってる上でたくさんの人に通用するおもしろいことをどんだけ考えられるかを試すことの方がおもしろくて、そのためにはそれらネーチャーの賞味の機会を逃す、時間を割く、をしてもいいと思ってる。