今日の寝起き

いつもどおり予備校に行こうとしているが、なぜか広島にいる気分でもある(多分、2年前の1浪のちょうどこの時期のことを思い出してるんだと思う。閉店までリブロで画集やデザイン誌をよみこんで、買って、出て、なんかいろんなところが閉店になったらわたしの行ける場所が少なくなってしまうじゃんか&はやく帰ろう・・って思ったりして、呉線の終点まで、長い時間電車にのっていた時 高校を卒業した日のことをよく考えたり、やたら大判のまんが買って読んだりしたとき)いつもどおり、なんかややパンク寸前。
母と姉が、旅行から帰ってくる。タマという猫に変身して天ぷらうどんなどを食べながら話を聴く。これ天ぷらっつーかフリッターじゃんと思いつつ。あと変身表で、猫が何種類かあり、タマっぽいのが2種類あって、どれがタマなんだろう・・と判断に苦しむ。司馬遼太郎川端康成か誰かの勘違いで二種類になってしまったらしい。すごい人も勘違いするもんだなーと思う。
母と姉は、いろんなところに行って、食べ物もおいしかったけど、美術館は広島のほうがいいな、ゆっくり見れて、みた後ゆっくりお茶ができるからね。すいてていい。みたいなことを言っていて、あ、今日は予備校サボって美術館に行こう。と思う。呉線で広島駅でおりて、晴れた日の朝に、ぼーっと歩きながら、広島市現代美術館ひろしま美術館に行こう。と思う。なぜならまわりに緑も多いから。県立美術館は、となりの縮景園に緑はあっても、入るの有料だから。やっぱ森美術館みたいなのは展示は興味深くてもなんかストレスたまるもんな。ストレッサーだよな。と思いながらめざめる。
目覚めは、ん?ここ東京じゃん・・て思いながらでしたが、窓の外の白〜い晴れ具合や、外の騒音が、日曜日の午前の我が家の掃除・TV・父の娯楽の音に酷似していたので、広島の家の2階の自分の部屋で寝ているような気分でもあった。そんで、あ・はやく広島に帰って、人道的な生活を学び、その方法を東京に伝えよう。と思い、とりあえず、庭園美術館か、原美術館か、上野の美術館で、びじつ見たいなっと思って、原美術館に行った。じつに3年ぶりのことでした。



地方の美術館は、都心の、話題性のポップな、今いちばんの企画とは別の、ちょっと過疎ってるか、とんがってても地方では、都心よりもそれを求めたり理解したがったりする人間の少ない企画になりがちなような気分がある。その中で、高校のとき、美術は、自分にぴったりだと思った時は、気持ちよかったっすよ。それから先の道に、自分はうまいのかへたなのか、などということをかんがえたり、ひとりでいいものが描けるのか、とおもったり、才能があるのかどうなのかとおもったり パンク寸前になったり むずかしく考えすぎたりすることが、しょっちゅう出てくることは、ほんとうに予想外の展開だった。そういう意味でこれからも美術と関わっていくことをね、かんがえたりします。



上京した同級生に、遅れて上京してきた、1年間の差はけっこうでかい。あの、情報量の差よりも、気分の差が。
情報量なんか、あってもあっても出てくるものだから、ぼーっとしてても入ってくるし、知ってることで優劣の差をつけることは難しいと思う それよりも、こわがるものの多さとか、慣れからくる心地よさの多さとかに違いが出てくる。上京してもうすぐ2年経つ。


広島でのいい思い出のことも、そのうち統計をとったりしたい 今思い出すのは、センターの前に、予備校にいったら閉まっていて、そのまま朝の早い寒い広島の街をうろうろして、はやくから開いてたアンデルセンに入ってパン見てホットのカプチーノを飲みつつ、シャッターのしまったグレーっぽい本通りをみてて、晴れ着姿の女の子と保護者的な姿がちらちら見えるので、あっ成人式なんだぁ と思った日のこと 翌年の同日、自分が成人になった日は、死ぬかと思った。