やる気はある。質を上げることも大事に思っているのだが、すごいあきらめている。おもいつくかぎりの手を打った気になっとけば、だめでいい、いつまでもおなじ、みたいな感じはなんなんだ?去年あたりから何様だ。目に見える誰かのためにやってることと違いだしたから?自分がやることを、特定しにくいお天気ニュースの中の今日の東京の俯瞰の映像のひとたちのためにやりはじめてからなのか。ただでもらえるけどうまく扱いづらいものに目移りしているせいか  こわしたいかべ、あるいは、大事なloveをつかむんだ。さきはみにくい、うぐぐ



わたしが4年ほど前に通っていた中学・高校のある西広島と広島駅前のちょっと前の映像
http://www.youtube.com/watch?v=ttYd4BnGBLo
http://www.youtube.com/watch?v=m0Ho19Wi_sE

幼稚園くらいの頃、昔住んでいたアパートで、夏、母が昼寝をしていて、小さい頃のわたしは昼寝している人のそばにいるとなんか心細い気分になる癖があって(ほかにも人前でごはんを食べることへの抵抗など、変な癖は語り出したらいくらでもある)姉が、お母さんが寝ている間にアイスコーヒーを作ろう、といって、コーヒーを飲みたいとつねづね思っていたわたしは、やった!と思ったんだけど、作り方を姉は知っているのか、またもし事故が起きたら皆にしぼられる、とおそれを感じつつまあ楽しみに観察してたんだけど、できた代物がインスタントコーヒーに水道水と氷を加えただけのもので、当然水とコーヒー粉末は分離状態にあるわけです  でおねえちゃんが一口飲んで、まず!!みたいなことを言ってすぐに処分、結局わたしは見てるだけだったので、まずいっていうか味あるのかな〜、食べ物で遊んじゃったな〜、流しに捨てた氷が完全に溶けるまでお母さんが寝てたらいいね、みたいな風に思ったんだけど、やっぱりアイスコーヒーに対するあこがれはあった。深緑のふちのドアの、アールぬきのかくばった冷蔵庫に、アラレちゃんのひらべったいマグネットが貼ってあったような記憶とともに、今、アイスコーヒーを飲むために熱湯を注ぎたいんだけど東洋陶器のスタッキンググラスは耐熱かしら、耐熱とちがったらピシッとかいって割れるのかしら、だったら割れる前にすばやく冷たい牛乳を注ごう、などと考えている時に、まあときどき思い出すことだけど、今日も思い出したよ。
氷つながりで、小学校の通学路のとちゅうにあるショッピングセンターの空きテナントに入ったかき氷屋で氷のかたまりをもらって遊ぶ子に、商品だけどいいのかなと思ったりしたことや、下校仲間とビニール袋に水をたっぷり入れて、はしっこをちょっとだけ切ったところから流れる水の線と感触に感動しながら家まで歩いて帰っていたことも思い出すし、なんかびみょう