大受験の、2浪、3浪時代の作品が大量にあるので、引っ越しを機に廃棄するものと手元に残しておくものの選り分けをした。


評価された作品は前から見たいときに見れるようにしていたので、改めて発見があるわけとちがうけど、
チャラい失敗作品、しょぼい気持ちで描いた自分の最低な性格まるみえの表面的なunko
と記憶していた作品も、改めて見ると案外ドスが効いていて「さわれる形の表現」に手を込めて工夫を凝らして描いているように見えるものがあったり、もちろん途中で投げ出したり要素のとぼしい見方で突き進んだ作品もあるけど、いつも自分がとる表現方法とはちょっと違う作品、たとえば2浪の秋の組み石膏は夏に◯◯ちゃんがやった白っぽい奥行き表現を取り入れたんだったとか、2浪の冬のモリエールのデッサンは◯◯先生の紙に穴があくくらい強いタッチを取り入れたんだったとかいう気づきから、今まで知った人の絵が頭に浮かんで来て、表現方法は十人十色ってことを再確認したり(最近は、大人数で同じ具体的なテーマで作品を作ることから離れていたから、キーワードをマニュアルにして要領を知れば誰でも評価される作品が描けるようなイメージができていた)
昔は意地をはって、描いた絵の評価が低かったら、色のきれいさを評価されても、自分でもきれいだと感じていても、色なんか誰にでも扱えるし口先の褒め言葉だと頑なに意地をはっていたけど、今見ると、やっぱりきれいだった。
と感じるのを認めるようになったら負けだって姿勢をとっていた。
とはいえ結局やっぱり失敗した作品で、たくさんの人の表現の中に埋もれる表現ではある。
作品をつくるたくさんの人の中で、自分も作品を作って、◯◯ちゃんは◯◯な感じ、◯◯ちゃんは◯◯な感じ、って認識をつくっていく中で、自分は何なんだろう?と考えて、表現すること、理解することへの身をもった実感を得るために、予想以上に体力を消耗する日々。傷つけられたり人を傷つけるのは日常生活でも同じことでも、自覚の度合いが違う。


今年の芸大の2次試験の真っ最中、わたしの受験生活の4、5年間は、つらいこともあるし地味な気分だったけど、試験とはまったく関係ぬきの時間を過ごしていたような気がした。試験の制作には使うものとかにルールがあって、わたしが基本的にめちゃ使う水彩絵具と画材が試験で禁止されていたことを当日試験場で知ったという点はしくった。


数年間、朝9時から4時まで毎日やっていたこと。
わたしが2浪だった時に現役生だった子で2浪している子や、
わたしの同級生やいくつか先輩で今も浪人している人も数は少ないけどいる。
誰でも同じだけど、気をもむこともあるし、理解が得られにくくてつらかったりしても、ゆくゆくはうまくいくか、だめかはナゾの日々をおくっている。
わたしの、悟りきって偉くなったような思いつきは多分間違ってる。今から先まだまだいろんな苦しいことがあるのは予想できるけど、かつての空回りは朝飯前のパワーから、どんどん体力が落ちていくとともに、要領も知っていくのかなという気もしつつ、自分ひとりでおこすショボショボな行動とは違う、き、、、き、、、、、き、、貴重な体験ができていたと、ひさびさに、自分の過ごした時間を、今からカットする大事な宝石の原石を見るようにふりかえり(できることならすべてを大事な宝石のように扱いたい)、作品づくりについて考えた。