難しくてカッコイイ「自我という名の左官職人」(MEMO)

買って、家でまじまじと眺めているうちに、血となり肉となり同化するなんていうのは、幻想。ふわふわしていてかしこいがだいぶ眠そうな女の子っていうのはわたしの発信源になりうる。


前の大学にいた頃、じりじりした焦りのようなものだけが原動力で、得に大事なものもなく、大学で得られるものは粗末にできるものばかりのような気がしていたけど、図書室には時々立ち寄っていた。たまたま「美術の窓」という雑誌を手に取ると、知っている人の石膏デッサンと美大受験の評論が載っていた。評論によると、わたしは、17,18,19,20にかけて、石膏像のあばたをひとつひとつシャーペンで描くことで青春のエネルギーを空費したということになっていて、若干鬱屈した気分になったんだけど、今でも、石膏室に閉じ込めてデッサンさせるのはいいトレーニングだと思っている。
フィジカルに絵を描くことは、おもしろいこともあるし、簡単。


自分の人工島を構築する時、自分の経済はマイナスにのみはたらく。お金を使って、**がいい、**はだめだったという経験を経て自分のオリジナリティを獲得する。経済力ぬきに文化を創出する力として何をもってるのかな〜と考えると、なにかを滞りぬきにこなせる力、あるいはカーストを骨組みにしてアスレチック遊びをする力を駆使すれば文化は創出できると思い至る。
生きていくには食べ物を得る力がいる。死ぬのはしんどくて忌まわしい行為で、力が弱くて今のままではひたすら傷つくだけのような人を、指南あるいは保護できる力がほしいと思ったことがある。
わたしたちは、若くて時間があるという以外に、存在自体を賞賛されるような力のある存在とは違う。
わたしたちは、言葉上ではもみ消すことのできる汚点のような、存在自体が用意周到さに欠けたものだということ。
嬉しいことも、悲しいことも、一日で他人事になって、毎日、マッサラな自分に切り替わったらいい。
感情的なことばで干渉されると、子どもみたいに帰納と演繹を要求。


ふだんは気付きにくくても、確実に、「欠如」のコンプレックスにさいなまれて頭が痛くなっている。
汚れ役をいやがる趣味と、体力の弱さのせいで、「本質」と「装飾」のあいだにあるみぞでおぼれる。
今の自分の設定できる定義が通用するのが、経験値的に自分範囲だから、若気に関しては、事実、若いんだけど。
でも、自分に欠如した何かを得たいばかりに、ウロボロス的闘争を避けて、単純に**アイテムを経済力で手に入れさえすれば満たされるという考えもある。
なにがなんでも、ありとあらゆる瞬間、頭痛から身を守るあらゆる策を編み出すために生きている状態。
彼・彼女にも、わたしが体験したことくらいつらいことはあったのかな〜と思いつつ、まあわたしは欠如してるけど、彼彼女らにはあるってものはたくさんありますから〜のスパイラル。
楽しいのは合間合間の休憩、エスケープだと思い至る時、人生を休憩、エスケープしようかと思う。
夜になったら世界の終わりみたいに静かにせりだす感じ。波音だけ聞こえる。殺されても誰もきづきにくそうな、なにを捨ててもばれにくそうな、黒いマットな地面になぜか電波の模様のできる空間、穴がある。
犬猫を散歩させたい。


同じ花を見てうつくしいといった二人の心と心が今はもう***〜、
醜いから認めてもらえることがしょっちゅうある。同じように醜い人の世界に踏み込める。どちらかが美しいと、引け目を感じてしまってうまくいきにくい。頭ひとつ抜けにくく、平等にぐるぐるせんたっきをまわっているような錯覚をおぼえ、なんかいいことあるんでしょうか?という穏やかさに欠けた気分の中で、夜見た夢の話、自己完結できるきれいごとをくっちゃべって完成度を狙いながら、今のままじゃだめだっていつも思いながら何かの権力にたかることに安心をもとめている。