わああああああああああああ

憧れの先輩A君のグループ展にいつた
しんびともだちににいろいろ、あのーしてもらってほんとたすかった



A君に2年ぶりに会った!!
わたしの昔の絵などを覚えてたのでごいすーうれしくてテンパッてほとんどまったくといっていいほど言葉が出なかった
みんな覚えてくれとらんものだと思ってたのにこの人は。やさしいとかいうんじゃないんだよね
すきだ!!
昔はおかっぱにヒゲだったけれども、今は海老蔵みたいになっとった
でもなんら変わっとらんかったわ。 千佳ちゃんも元気だといっていた。
しゃべれてうれしかった 夜見る方の夢みたい


あー失語症なのかな


失語症は、話すこと・聞くこと、読むこと、書くこと・計算するなどの機能に障害があります。そのイメージは、「日本人がフランスのパリに一人で旅行したような状態」と考えると良いでしょう。
フランス語は、聞こえているが意味は分かりません、もちろん話もできません、これによく似た状態です。
わたしの症状もこのような感じです。
というか
ことばおもてに出している意味に気をとられないように
ことばうらの本心を探るべく俯瞰の視線でその人の考えている意味を推しはからないと
なんのきづかいもなく会話に興じたら
人の心の中の繊細に作ったお菓子のようなものをブチ壊しに食べて取り返しのつかないことをしてしまいそうだから
親しき仲にも・・琴線つぶしはナシ!!みたいな(何度かやった覚えがある、友達の心の琴線をずたずたに・・)


インタビューで見るミュージシャンの社交においては、ミュージックで吐露するような彼の繊細な独自性を見せず
ひたすらミュージック活動を支えるべく一般的な社交を務めているのと同じような感じの
単なる社交の上澄みじゃ人は推し量れないよね。みたいな。なんじゃそりゃ。的。
いや推し量れたところでいいことあるのか 人の心の中のお菓子を無残に食べつくして何か悪いことがあるのだろうか
まー人の打ち解けた笑顔が見たいとか、人の悲嘆にくれる姿は見たくないとかいうのはあるけどね。


失語症なら「ウェルニッケ失語」だ(症状にすごい自覚がある)
あ〜
ときどきじぶんひとりで考えてばかりいるから 自分循環器の中にずっといるから
自分では気づいて無い神経症にかかってしまってるんじゃないかと心配になるときはある 
とことんうたがい病とか、定義を求めたがる病 つきあいめんどくさい系心なし病 なんでも病気にしたがる病とか・・ いわゆる現代病(はやりやまい)とか・・
治る病気なら治したいけれど・・治った先になにがあるのかな もしかして悪い意味でなにもないんじゃないのかな
みんなそんなことくらいわかってるよっつってやってんのかな〜どうなのそのへん?なんかしゃべりたくなった人教えてよ
まけっこう犬の散歩しておやつ食べて、ついでにささっと軽〜く、とは言えない重いテーマなのかーこれは
でもいろんな人の、あんまりうかつに公言できない深いところで考えてることとか、聞いてみたい それはダークサイドとかそういう区分じゃなくて・・「やきのう寝る前に考えてたんだけどさ・・」みたいな、終わりのなさそうな 夜想の話(こちとら朝起きた時から夜想を始めております)(正直言って夜想における造詣の深さじゃ負ける気がせんわ)


あと自分が こういうのがいわゆるユートピアなんだと思ってたのは 実はまったく逆のディストピア というものらしいです


てんらんかい と銘打ってテンランカイジョーに置くものには、置くものの中に、客の口出し場というか、そこに客の居場所をつくってやらんといかんなっと思った。
襟を正して見る時にそこに自分の居場所がなかったら、居場所の無さに客は萎縮してしまう。
疎外感とは別の、迎えられているんだけど居場所がない、場違い感というか 
生まれてから今まで、確実に、しょっちゅう感じること。それは自信が無いというのとも違って。
やっぱり、迎え入れるほうの側は、客の受け入れ態勢をととのえねば、と思った。
同じつくられた物でも、それを意識してるものとしてないものとでは、とっつき易さに雲泥の差があって
初めての場所に行った時は、とっつき易そうな人を見つけて話しかけるものね と思った


a君と別れたあとでなんでかしらんがボロボロ涙が出た
あーなんかしんじられないな・・ふしぎ.
どこに行っても場違い感が否めないのに、なぜか今日は所詮他人の人たちがお兄ちゃんのように近く見えた
皆ふしぎな人たちだった。
やっぱりa君みたいにていねいかつおおらかに人と接触できるような人になりたい。
2年前から今でもそう。2年前のa君と今のわたしが同い年だなんて。