だめだだめだ朝おきられない

高円寺なんかうんざりだ 中野なんかうんざり


何かを信じ込む時がないと、同じ力でも大きく優劣が出たりするんだな
信じ込むだけじゃ一面化してしまうから
あくまで多面体としてとらえて 自分の信じてることを疑うのか(←要素がそれだけでは絶対にジレンマに終わる)、別のものを同じくらい信じ込むのか(←多分これがポジティブな向かい方)



脳のしくみを知ってるってうらやましい!


自分のつくるものの風景の中に、昔から必ずねこぢる的女の子がいるのが見えた
わたしには多分ワクワクするくらいきらびやかではなやかな空間はつくり出せないと思う
どこか宙に浮いた闇ができると、そこには
どうせどーにもならないんだからさー
といっているシニカルな表情の女の子が見えてくる
たとえばhttp://members.at.infoseek.co.jp/kaitentai/ran.htm(これ、一番右の絵で終わりです つーかもうグダグダ)




男おいどん・大山昇太の部屋からサルマタケがなくならないように



でも男おいどんは知ってても銀河鉄道999は知らないっていうところに
「わたしの社会性と今後」が現れているようで はやく999見よ と思う




ソフト面を強化しようと思った
どんなに合わない道理を合わせていく作業に勤しんでも結局、
「何かを好きだ」ってことを人と共有できる時の気持ちの高揚、みたいのは、
なんか多分みなさんの譲れんとこなんじゃないかなーと思う。
それをわたくし語感的にソフト面と呼ぶことにした
結局は、認識文字だとかの古くからある形式、粒子を粒子にこすりつけて出る音や色合いなどの反応等々の古代からある現象でもって
個人的体験をもじったりするのが創作というのだとしたら<だとしたら>
その創作物の価値無価値、高尚低俗、意味合い、の判断の決定打は、
やはりその創作物から想起せられるものについていつどこでどれだけ誰かと、キャッキャッと云い合えるのか、ということだと思い
それを確信犯的に継続的にやっていけるのがいわゆる職業、プロ、というやつなんじゃろ と思った
(そんで一回きりの人生を生きながらそれに勤しむのなら、やっぱ好きじゃないとできんことじゃろ と)


ただ単に驚かして済ませるだけの、子どもだましなどではない。


この展開、かなり自己流だなーというのはわかっています






以下茂木健一郎の著書より引用


文学については、ベンヤミンの理論(※ベンヤミン「複製技術時代の芸術作品」)の理論は修正されなければならない。文学の本来の命を考える上においては、複製技術は必ずしも否定的な意味を持たない。文学作品のアウラ自体は、複製可能である。しかし、だからと言って、ある文学作品を生み出した生の文脈自体が、複製可能であるわけがない。夏目漱石の作品自体はどんなに複製してもその命を失わないが、私たちは夏目漱石その人の生の文脈自体をコピーすることはできない。



ん〜〜〜〜 っ  まいう〜〜〜〜〜!!
ま要するに継続的に描かれるエスキース(下書き)と、その中から生まれるひとつの完成形としての出来映え のふたつのもつオーラは、全く別物である とつまりそういうだけの 当然のことなんでしょう
ギターをポロポロ弾きながら歌詞を考えることと 出来上がったいっこの歌の状態 ふたつとも同じものを見据えていたにしてもまったく別次元にあると
味わう余韻。ソフト面。